以前仙台に住んでいた時、朝方まで友達と飲み明かし、酔いを引きずった駅前で孤独に関する議論を交わした事があった。
「もし自分の体に羽が生えたら楽しいだろうなぁ」
僕が何気なくそう呟いたら、それを受けた友達が「いや、寂しいだけだろ」と返して来て、孤独について二人で話し合った。
「寂しい? なんで?」
僕は友達に、羽が生えたらなぜ、寂しいと思うのか理由を聞いてみた。
「自分一人だけ飛べても、他の人が飛べなかったら誰にもその楽しみを理解してもらえないから」
友達は確かそう答えた。
芸術なんかやっているからだろうか?
僕も友達も、ずっと前から誰にも理解されない孤独みたいなものを持っている感覚が確かにあった。
だけど友達から寂しい理由を聞いた時に、僕は、僕と友達が感じている孤独は同じものではないと、その時気づかされた。
友達の感じている孤独が自分自身を世界から切り離して孤立してしまう状態だとしたら、僕が感じている孤独は自分自身をこの世界から守ってくれる状態だ。
友達がいうように、僕にも他人に自分の考えや思いを理解してもらいたい欲求はある。
でもそれと同時に誰にも理解されていない事に対する優越感や喜びみたいなものもあった。
僕の場合はその感覚が自分はこの世で唯一無二の存在だ、と思える自己承認になっている。
だから空を飛べるのが自分一人だけだとしても僕は楽しいだろうと思ったのだ。
人間は誰も空を飛べない。
そしてみんなそれぞれ他人には計り知れない独自の孤独を持っていると僕は思う。
だから空を飛べる気持ちはわかってもらえなくても、飛べない気持ちがわかるなら寂しくない、というのが僕の孤独について出した答えだった。
友達はその時誰とでも理解し合えて、全てを共有したいと思っていたのかもしれない。
僕の友達は他人と理解し合えない事があると常に陰鬱として苦しむ傾向があった。
そういう人の孤独は放っておくといずれ「孤毒」になると思う。
「誰も自分を理解してくれない。自分は世界で一人ぼっちだ。だから生きていても意味がない」
そんな理由でナイフを振りかざし、無差別殺人を起こす人がいるけど、その人の孤独もひょっとしたら「孤毒」になった結果なのかもしれない。
もし自分が感じている孤独が「孤毒」だと思ったら、そんな誰にも理解してもらえない孤独をネットを通じて世の中に発信してみたらいいと思う。
返事はなくても、発信し続けていればそれに共感してくれる人がいるかもしれない。
誰にも理解してもらえないのであれば、笑われたっていいし、嫌われたっていいと思う。
でももし世界でたった一人のあなたの孤独な発信を、同じように世界のどこかでたった一人の孤独を感じている人が共有したら、その二人の孤独はお互いを救い、唯一無二の自分を肯定する崇高な「狐徳」になると思う。
それで救われる人がいるなら僕はこのブログを通して発信し続けたい。