あらすじ
投げやりに就職先を決めて、自転車による一人旅に出た大学生(森山未來)。だが、その途中で事故を起こしてしまい、旧道沿いにあるドライブインHOUSE475に立ち寄る。寡黙ながらも真理を突いたことを話す店主のセイジ(西島秀俊)と、店に集うユニークな客たちに魅了され、彼は住み込みで働くように。これまでに得たことのない充足を店での生活に感じ、よりセイジのことを知ろうとその周辺を探っていたある日、思いもよらぬ事件が起きてしまう。
監督:伊勢谷友介
キャスト:西島秀俊,森山未來
この映画を観た時、物語の内容がグルジェフの「超人思想」に触れているような気がしてすごく感銘を受けた。
物語のクライマックスでセイジが取った行動。
それがグルジェフの唱える、人が超人になろうとする姿のように僕には見えたのだ。
グルジェフの「超人思想」についてはコリン・ウィルソンの著書『アウトサイダー』を通じて知った。
この思想を深く理解するのはとても難解で、たとえ理解出来たとしても実践出来る人はほとんどいないだろうと思った。
ネットの情報を抜粋し、僕が理解した範囲でグルジェフの超人思想を要約すると、こんな内容になる。
【グルジェフの超人思想】
グルジェフの超人思想によると、人は機械(条件づけによって反応するロボット)のようなものであるらしい。
そのふるまい、言葉、思い、気持ち、信念、意見、習慣はみな、外部からの影響や印象がもたらした結果にすぎず、自分からは何の思考も行動も起こせない。
大衆運動も戦争も革命も政変もただ起きているだけで、人の生死や、人が家を建てたり、本を書いたりして生計を立てるのも、みずからの意志ではなくたまたまそうなっているだけらしい。
人が機械であるのをやめ、主体的に何かをするには、何よりもまず自分が機械であることを知らなければならない。
存在するということがどういうことなのかを理解する必要がある。
人は宇宙、および自然界の都合によって存在し、宇宙や自然界の法則によって常に催眠状態にある。
そしてこの催眠状態は常に維持され、強化されている。
宇宙、および自然界的には、人間を催眠状態に留め、人間が真実を見て自分の現状を理解するのを妨げたほうが好都合だからだ。
人類全体の進歩、または進化に見えるものも部分的な改変でしかなく、その裏で起こっている逆方向への改変によってはすぐにでも帳消しになる程度のものだ。
人類は、他の有機的生命と同じく、現時点での地球の必要と目的を満たすために地球上に生まれて来た。
その内側に進化の可能性を秘めてはいるが、地球および宇宙全体の福利にとって、人類全体が進化する可能性を発展させるのは無用どころか、有害で致命的な場合もありえる。
そのため宇宙や自然界の法則の中に人類を現在のレベル(惑星レベル)に留めておくための特殊な力が作用している。
そしてそれが人類の進化を阻止している要因になっている。
人間が大勢進化することを阻止する特殊な力は、個人の進化も阻止しようとするが、ある時期までは制限されていて、宇宙的な大きな時間の流れの中においては、やはり人類には“進化”という課題が課せられている。
人はその力を出し抜いて進化を求めなければならない。
進化した人間(超人)は意識が拡大し、通常では感知しえない宇宙的真理を把握することができる。
そして自動化された運命の干渉から逃れ、自分の意志のまま自由な生き方ができ、絶対の幸福と自由を顕現するという。
人はどうしたら超人になれるのか?
グルジェフは人が超人になる方法として、次のような事を説いている。
人間が進化、あるいは覚醒するためには、感情と思考のエネルギーを、高次の感情と思考の“センター”と呼ばれる場所に連結させなければならない。
高次のセンターは人間の手の届かない領域にあるため、人は自分の感情および思考を操作して、そのボルテージを高次のセンターまで伸ばす必要がある。
人間の意識=エネルギーだということを知り、感情と思考のエネルギーを、高次の感情と思考のセンターに伸ばさなければいけない。
しかし通常、人間の意識(エネルギー)は外部に向けられているか、夢想や理想にばかり向けられて消費されてしまっているため、高次のセンターを着火させるほどのエネルギーが湧き上がらない。
人間はありのままの自分の姿にショックを受ける事に耐えられないため、それを防ぐために意識の内部に「緩衝器(クンダバッファー)」と呼ばれるものを持っている。
その緩衝器の働きがエネルギーの方向を弱めてしまう要因になっている。
人は誰しも自分は有能で魅力的であり、人気があって重要な存在であると思い込みたい。
自分のありのままの姿が無能で、魅力のない、つまらない存在であると知ったなら、大きなショックを受けるだろう。
普通はそれに耐えられないので「緩衝器」を使ってそのショックをやわらげ、ありのままの自己から目をそらしてしまうのである。
しかし、もし人が緩衝器を取り去って自分の失敗を認め、あえてその苦しみを受けて自己のありのままの姿を見つめたなら、意識エネルギーは高次のセンターに向かいはじめ、ついには覚醒に至る。
「我」の強い人ほど緩衝器の働きが強いが、人は緩衝器のない状態になると非常に苦しい思いをする。
だから緩衝器を撤去すると同時に、人は強い意志を獲得しなければならないのである。
進化(覚醒)は、それを捜し求めている者、それを得るために長期間たゆまない自己との闘い、自己修練をする準備のできている者にのみ可能なのだ。
そのためには『緩衝器』を破壊し、自己観察によって矛盾の感覚と結びついているあらゆる内的苦痛を積極的に受け入れる必要がある。
グルジェフはそれを「超努力」と呼んでいる。
以上のような内容がグルジェフの超人思想だ。
キリストや釈迦などはこの超人思想の実践者といえるかもしれないけど、この現代社会においてそれを実践するのは不可能に近い。
でも僕はセイジに、人間が進化して超人へと向かう発露を確かに見た。
セイジは物語の中で田舎のBARで雇われ店長をしている、無口で人付き合いが不器用な男として描かれている。
彼は過去に小さい妹を守るために自分の両親を殺し、少年鑑別所に入っていた。
彼が少年鑑別所に入っている間、ひとりぼっちになった小さい妹が死んだ。
その出来事がきっかけかは分からないけど、セイジにはこの世界で起こる不条理な出来事による悲しみや不幸が、普通の人以上に見えてしまう。
それゆえに水の中でしか生きられない魚が陸で生きていかなければならないような、虚無的で不器用な生き方を余儀なくされている。
物語はそんなセイジと出会った旅の青年の回想として語られていくが、ある悲惨な出来事をきっかけに、セイジが物語のクライマックスで驚くべき行動に出る。
セイジは不条理な出来事によって世界から心を閉ざしてしまった幼い少女りつ子の前で自らの片腕を斧で叩き切った。
おそらくセイジは自分の片腕を切り落とす事で、りつ子が受けた同じ不条理、世界に対する不信を共有しようとしたのだと思う。
そこに一切の迷いはなく、ただひたすらにりつ子の回復を願って払われるセイジの尊い自己犠牲だけがあった。
そしてその事をきっかけに世界から心を閉ざしていたりつ子が再び世界を取り戻した。
常人には到底真似出来ない、グルジェフが「超努力」と呼ぶもの。
人が超人に向かって進化する時の「超努力」とはまさにこのセイジのような行為の事なのではないか?と僕は思った。
物語はセイジのその後を何も語らないが、映画のラストで旅人の青年と大人になったりつ子が再会するシーンがあり、そこで彼女はこんな事を言う。
「お祖父ちゃんはあれからすっかり神様を嫌いになってしまった。でも私の神様は私の中に生きている」
表現は違えど、りつこはセイジが見せた超努力の中に“神様”を感じたんだと思う。
この作品の原作者である辻内智貴さんがグルジェフの超人思想を知っているのかは知らないけど、僕も確かにこの映画を通して超人の発露を見たのだ。