GWの連休中に大阪梅田の大丸で飛び降り自殺があった。
僕も20代の頃までは希死念慮がひどく、ちょっとした事がきっかけでよく死にたくなっていた。
だからメディアで「自殺」が話題になるとつい興味が出て反応してしまう。
なにかと生き辛い世の中だし、自殺者の数が年間3万人とかになって来ると、自殺も癌と同じく日本人のスタンダードな死に方として認めてあげたくなる。
日本人はたとえ馬鹿でもアホでも、ブスでもクズでも恥を重んじる民族だ。
人様に迷惑をかけたり、恥を晒してまで生きていたくはないと常に気張っている。
僕の母親の兄にあたる叔父も借金を苦に自殺で亡くなっている。
友達の親や親の知り合いの子なんかも何人か自殺で亡くなった。
親しい人間の自殺は当然ショックが大きい。
悲しいというか寂しいというか、一人減る毎になんか人生が白ける気がする。
まったく知り合いではない人の自殺に関しても、また一人哀れな人がただこの世を去っただけで、この世界や社会に対して何も爪痕を残していなかったりすると、やはり白けてしまう。
死ぬ覚悟があるなら、生きるか死ぬかのギャンブル的な感覚でこの世界を変えてしまうような死に方をしてみたらどうだろう?
どうせ生きてても人に迷惑がかかるわけだし、死んで楽になれると思っているなら、僕らには到底真似出来ないような大それた事をやって死んで見せてくれ!
不謹慎な言い方だけど、誰かが自殺する度にそんな想いが沸き起こる。
僕がのほほんと連休を楽しんでいた時に大丸の屋上にいた自殺志願者は、白昼堂々みんなの目の前でバラバラになって死んだ。
わけのわからない事を叫んでいたみたいだけど、ちゃんと自分の思いのたけを社会にぶつけなかったら無駄死にだろう。
ただ喚き散らすのでなく、政治家が拡声器を使って理路整然と演説するように、しっかりと社会に対する思いや、自分の死にたい気持ちを告白すればよかったのに、と思う。
みんな好奇な目でスマホを向けて、真剣に聴いてくれたと思う。
本気で死を覚悟しているなら聴衆のトラウマになってもいい。
内容が衝撃的であればあるほど、あなたの想いはあっという間に拡散されて、何らかの社会変革が起こったかもしれない。
大勢の見物人が騒ぐ声や警察の怒号が飛び交う中で、あの自殺者はきっと強烈な変性意識状態になっていたと思う。
強烈な変性意識状態は人を劇的に変える。
強烈な変性意識状態を体験した人の人生は劇的に変わってしまう。
もしあの自殺者が飛び降りずに、冷静になってゆっくりと下に降りて来ていたら、これまでの何もかもがすっきりして生まれ変わったような気持ちになっていたはずだ。
それがすごく勿体なかった。
ただ飛び降りても、真っ暗な虚無に飲み込まれて奈落に落下するだけだ。
一時世間がざわつくだけで後には何も残らない。
バラバラになった体も飛び散った血もキレイに片付けられてみんな元通りの日常に戻る。
あなたがこの世界と社会に与えたかった衝撃はすぐに風化して、いずれ存在すらなかった事になる。
僕もそのうちすぐに忘れるだろう。
あの日あの自殺者は世界と自分を変える人生最大のチャンスをまんまと逃してしまったのだ。
それがすごく惜しいと思う。