「必死こいてアピールしなくても良い物を創れば必然的に残るはず」
そう思って、以前仙台の海岸で専門学校の友達と立体のARTを創った事があった。
誰が創ったのかわからないARTのような造形物がもし海岸にポツンとあったら、人はそれをどう思ってどう扱うのか?
それを知る実験。
海岸に落ちている物だけを使って創るルールにして、僕は錆びたタイヤのホイールなどの金属素材を集めて城のような立体物を創った。
友だちは流木とロープ状の物を拾って来て、テント?結界?
とにかくそういうイメージのものを創っていた。
他人の作品の良し悪しはよくわからないけど、なんとなく自分の作品の方が良いような気がした。
ただどっちの作品もそんなに長くは残らない気もした。
誰かが芸術的感性で意図的に創った物である事は理解してもらえると思うけど、いつまでも保存しておきたくなるような見ごたえまではなかった。
波に飲まれて風化するよりも早く、海水浴に来た客にあっけなく壊される。
そんな気がした。
作品が完成してから記念に写真を撮り、それから二人で作品の近くに大きな落とし穴を掘った。
作品にイタズラしようとした人を穴に落とすイタズラ。
なぜか無性に楽しかった。
ARTなんて創って発表してしまえば誰かが好き勝手評価してくれる。
生みの苦しみなんていらない。
友だちはそれからニューヨークに渡ってアートスクールに入り、今もまだARTをやっている。
賞をもらって、作品もいくらか売れたりしたみたい。
でもSNSを通して彼の様子を見ていると、あの時みたいに楽しくは創れていない気がする。
彼らしい作品の雰囲気は変わらないけど、前より不自由さを感じる。
「おまえもニューヨークに来い」って何度か誘われたけど、僕は言葉も通じない国で楽しくARTをやる自信がないから、ずっと日本でやる。
僕にとってARTは人生を楽しむための手段でしかない。
ARTをやる事が人生の目的ではないのだ。
必死こいてアピールしなくても良い物は必然的に残るはず。
その気持ちは今も変わってない。
残らないなら全部駄作でいい。
こんな過渡期の地球で毎日自分の好きなように絵が描けるだけでも幸いだと思う。
結局あの時創った作品がその後どうなったのかは確認していない。
15年くらい前の話だし、東日本大震災で津波があった海岸だから、もう残ってないのだけは確かだ。
でも楽しかったからそれでいい。