あらすじ
ジャングル奥地に自分の王国を築いた、カーツ大佐の暗殺を命じられるウィラード大尉。道中、様々なベトナム戦争の惨状を目の当たりにしながら、ウィラードは4人の部下と共に哨戒艇で川を上っていく……。
監督:フランシス・フォード・コッポラ
キャスト:マーロン・ブランド,マーティン・シーン
この映画について、いつか語りたいと思っていた。
名作として知れ渡ってはいるものの、大方の鑑賞者にとってこの映画の内容に関する理解は難しく、容易には語れない壁を感じさせる風格があると思う。
映画マニアや評論家を含め、この映画を語ろうとする人たちはみんなどこか野心的で、ヘタに語れば自分のセンスを疑われてしまうリスクを承知しているような気もする。
だから僕も無理を承知で語ってみる。
地獄の黙示録。原題は『Apocalypse Now』
辞書で「黙示」という言葉を調べてみると「隠されていたものが明らかにされる」という意味が出る。
原題である『Apocalypse Now』の直訳は「現代の黙示録」になるのだろうか?
僕はこの映画は戦争の悲惨さや狂気を風刺するものではなく、「戦争という体験によって明るみになるもの」を鑑賞者に示唆している映画なのではないか?と思った。
戦争という体験によって明るみになるものとは何か?
それは「紛れもない現実と、その実感」だと思う。
人は戦争という体験を通して、自分たちがこれまで過ごしていた社会が虚構である事に気付き、ただ現実を実感する。
コッポラ監督はその舞台としてベトナム戦争を選んだ。
祖国のため、家族のため、仲間のためなど、これまで健全な社会の日常の中で過ごして来た人たちを戦争に駆り出すには大義名分が必要だ。
しかし建物、人体、自然に至るあらゆる物質がいとも簡単に破壊され、消失するような戦場に身を置いた兵士は、常に死と隣り合わせにある状況の中で、普段は意識せずに抑圧している本能や潜在意識の存在をはっきりと自覚するようになる。
その体験によって人は、これまで自分たちが過ごしていた健全な社会が虚構の上に成り立っている事に気付く。
戦場には目の前に存在する物質が破壊される様相と、死の恐怖による生の実感だけがある。
それ以外に何もない。
野生の動物たちもおそらくそんな現実を生きていると思う。
虚構の上に成り立つ人間社会は、神話を土台にしたいくつもの物語や思想が折り重なった複雑な階層構造を持っており、国や社会という概念の中に、確かな現実と実感が隠れている。
恒久の平和を願い、繁栄と幸福を推奨して、死を完全に拒絶するように配慮された虚構の世界では、確かな生の実感を得るのは難しい。
戦争や震災などを体験した人がPTSD(心的外傷後ストレス障害)のような症状に苦しむのは、一度受け入れた確かな現実から、虚構の世界へ引き戻される事への拒絶反応があるからだろう。
戦争や震災で現実をしっかりと受け入れた人間は、虚構で成り立っている以前の世界では生の実感を感じる事が出来ないのだ。
死の恐怖による生の実感無き社会に復帰しても、うまく適応できなくなる。
カーツ大佐(マーロン・ブロンド)は戦争が突き付ける紛れもない現実の中でそれを悟り、以前のアメリカ社会に戻れない代わりに、ジャングルに暮らすモン族の虚構を受け入れ、そこに自分が理想とする王国を築いた。
カーツ大佐が虚構であるモン族の神話世界を現実として受け入れるためには、それを体現するための実践的行為を必要とする。
モン族の水牛に加え、人間という新たな生贄を神に捧げる事で、カーツ大佐は自分が理想とする王国の神話を体現し、狂気を孕んだ健全な社会を成立させようとした。
そしてカーツ大佐の暗殺を命じられたウィラード大尉(マーティン・シーン)も、以前のアメリカ社会には戻れなくなった人間の危うさを持っている。
彼がカーツ大佐にシンパシーを感じ、生贄の水牛のようにカーツ大佐を惨殺したのは、彼もまた自分の理想とする王国をそこに創ろうとしたからかもしれない。