一時期よく山登りをしていた。
きっかけは新田次郎の山岳小説『孤高の人』を読んで影響を受けたからだと思う。
夕暮れに下駄を履いて易々と六甲山に登った破天荒な男が、自身の類稀な登山の才能に目覚め、常に単独で過酷な山々を制覇していく物語。
どんな極寒の雪山であろうと、独自の登山思想と実践を積んだ単独登山では必ず生きて下山する。
そんなすごい登山家が家庭を持ち、たった一度後輩と組んで山を登ったおりに遭難して亡くなってしまうという皮肉なオチが非常に切なくて良かった。
登る時は必ず一人。
『孤高の人』のように、他人にはよく分からないジンクスとか、こだわりのようなものに取り憑かれ、人生の一切がその作用で動いているような気がする時が僕もある。
僕は日常生活に退屈すると、空想に耽って精神だけが非日常的な世界に遊離してしまう。
その状態を放置すると、生きた屍のような人生を送ってしまいそうな気がするから、どこかで遊離している精神を探しに行かなければいけない。
『孤高の人』を読んでいた時も、東京から地元に戻ってひどく退屈な日常を過ごしていた時期だったから、その精神は地元の山の頂あたりをずっと浮遊していると思っていた。
精神の方から独りで肉体に戻って来る事はない。
だから肉体を精神の方に近づけて取り戻す必要がある。
そういう強迫観念に取り憑かれ、登山家というより、行者さんの感覚に近い山登りをしていたと思う。
僕がよく登った地元の山は奥羽山脈に属する高さ1365mの山。
古来から山岳信仰の山として知られていて、標高が低いわりには高山植物が見られたり、残雪期は2000m級の山々に匹敵する雪渓のパノラマを望む事も出来る。
僕は山に登る時はほとんど誰にも言わない。
前日にこっそり用意して、夜明け前の暗いうちに家を出る。
頂上までの道のりは、大人の体力で平均3時間半くらい。
遭難者が多い山だから、舐めると怖い目に遭う。
登山を楽しむには、なるべく怖い目に遭わないように荷物を準備して、事前に登山の申請などを出してから登るのが常識だけど、僕の場合、精神が既に山の上に行ってしまっているから、道中では多少の怖い思いをした方がいいと思っていた。
あえて食糧や水を少なめにして、登山の装備も本格的なものではなく、実家にある間に合わせの物を倉庫から引っ張り出して使っていた。
道を隠す残雪。野生の熊か何かの大きな糞、落雷で倒れて道を塞いでいる大木、土砂崩れの痕、濡れた岩肌に足を滑らせて落下する可能性。
一歩間違えたら死ぬかもしれない。
そんな状況で、退屈な日常で失っている生の実感を取り戻したい。
そんな気持ちで山と対峙していた。
実際に何度も怖い目に遭った。
天候が悪化しても一度登った以上は精神を取り戻すまで帰れないし、帰らない。
そんな妙な意地を背負って淡々と登る。
木や植物が鬱蒼と茂る山中なんかは、まだ登山者に近い爽快な気分でいられるのだが、石ころだらけのガレ場に出たあたりからはもうすっかり行者だ。
ふっと霧がかかって周囲が何も見えなくなったガレ場で感じる寂寥感や虚無感を味わう事が僕にとっての登山の醍醐味だった。
そこから先は果てのない、ただ真っ白な神仏の世界であると本気で思う時がある。
賽の河原だったり、補陀落渡海のイメージは、山の頂上付近に漂うこの寂寥感や虚無感が作り出したものかもしれない。
周囲の世界が朧気で曖昧としている分、自己の存在がはっきりと感じられた。
非日常的な風景に身を置くことによって、日常から遊離した精神が肉体に戻って来る。
そして頂上に辿り着き、そこから下山する時は不思議と怖い思いをする事がなかった。
ただ完全に山を下りて、登山口から頂上付近の景色を振り返ると、「あんなところまで行っていたのか?」と我に返り、ゾッとして、身震いする時がある。
僕にとって山はそういう場所だ。
楽しいだけでは登れない、たまに行者する場所。