理想の親でありたい。
理想の息子、娘でいたい。
理想の彼氏彼女でいたい。
理想の上司、部下でいたい。
理想の店員、客でいたい。
みんなそう思って何かしら努力して、それが叶わないと辛く苦しい思いをする。
等身大の自分と理想の自分を常に比較して、そこにギャップがある事が許せない。
等身大の自分を受け入れられないと他者を恨み、世を恨み、生きる事に疲れ果てて絶望する。
多くの人にとって、理想の自分とは、顔がカッコいい、可愛い、性格が明るくて穏やか、誰に対しても礼儀正しく優しい、頭が賢く、仕事が出来る。お金にも時間にも不自由しない。
ユーモアがあってみんなに好かれ、嘘をつかない誠実な人間、だと思う。
その特徴がどれだけあるか?で、自分と他人の社会的価値を決めていると思う。
この理想は一体どこから生まれたんだろうか?
こんな人間、正直どこを見渡してもほとんどいない。
僕も含めて見渡す限り凡庸な人たちが、部分的に勝った負けたと、自他を心の中で値踏みして一喜一憂している。
いつからこんな理想の人間を自分は思い描くようになったんだろう?
社会人とはこうあるべき。人間とはこうあるべき。
そんな事を親や学校の先生、周囲の大人たちに諭されたからだろうか?
英雄伝や偉人伝なんかを読んでそう思ったのだろうか?
メディアに登場するハイスペックで好印象な有名人たちを見てそう思ったのだろうか?
理想の自分と等身大の自分とを比較する事で人は不幸になるのに、人は完璧な自分を目指して自己実現しようとする。
それは良い事だし否定はしない。
僕もそうだし。
でも何のために理想の自分でいたいのか?
この動機が不純だと、人はいつまでも偽りの自分に固執して、偽りの人生を歩んでしまうような気がする。
おそらく人は自分以外の他者のために理想の自分でいたいんだろうけど、その他者は自分にとって理想の人たちだろうか?
理想の自分を目指す自分の周りには何故か不思議と自分にとって理想の人たちがいない。
自分にとって理想の人たちは常にどこか遠くにいる。
理想だから遠くて当たり前なのかもしれないけど、いつも等身大の自分に見合った人たちが自分の周りにはいる。
「お前にそんな事言われる筋合いはないよ」
「一緒にするな、オレはお前よりマシだ」
僕を見てそう思う人もいるかもしれないけど、僕は自分と周りの人たちを比べても、幸福感の度合いで言ったらほとんど大差がないと思っている。
道行く誰彼みんな苦々しく、シケた顔に見える。
だから等身大の自分から目を背けているような人が、あまり好きではない。
強がりが透けているのに、平気なふりをしている人たちを見ていると哀れに思う。
僕に偉そうな事を言える人間なんか周りに一人もいないはずだけど、何か言いたげにすり寄って来て、得意げに自分の人生教訓を垂れていく。
そして満足そうに帰っていく。
でもみんな大抵一人の時は、等身大の自分と向き合って怯えていると思う。理想の自分を演じてしまった自分を悔やみ、いつかバレた時の事をクヨクヨと悩む。
SNSや、僕みたいにブログでそれを白状する人もいるけど、決してバレてはいけないと決意して、仮面を絶対に外さない人もいる。
僕はそんな相手に対して過剰に気を遣う。
触れていい部分と触れてはいけない部分を注意深く探るよう努める。
だからすぐに緊張で張り詰めてしまう。
その状態を紛らわすために酒を飲んですぐに酔う。
酔わないと向き合えない悪いクセがある。
人間不器用ですいません、としか言いようがないけど、自律神経が乱れまくって、体がボロボロなので勘弁してほしい。
今思うと、風呂上がりの父親の体もボロボロだった。
父親も繊細な気質だったから、自己犠牲を払って利他的であろうとした罰なんだろう。それが父親の理想像だったんだろう。
プライド高いから人に頼ったり、甘えたりする事に抵抗がある。
人に迷惑かけたくないから、一人で生きていけるなら一人で生きていきたい。
認めたくはないけど、所詮自分はそういう人間で、それ以上でもそれ以下でもない。
社会的にダメでもこの等身大の自分を認めてあげないといけない。
人に触発され、感化され、何かしら理想の自分を描いて来たけど、結局ずっと等身大の自分で四苦八苦してなんとか生きて来た。
この顔で好かれて嫌われて、この頭と心で好かれて嫌われて来た。
理想の自分を演じつつ、等身大の自分で人と関わって叱られて、励まされて、何者かになろうとして来た。
それを認めてあげるのが僕にとっての自己肯定だから、もう周りに好き勝手ゴチャゴチャ言われたくない。
言われたくないけど、人は他人の不幸や欠点が好きだから、どうせ好き勝手言うだろうけど、それならこっちもマイペースで好きにするよ。
このブログを読んで誰かが共感してくれたら、それだけで救われる。
もうそれだけで幸いだ。