放浪していた時、沖縄から西日本の聖地(パワースポット)と呼ばれる場所をいくつか訪れた事がある。
斎場御嶽、久高島、霧島神宮、四国八十八か所、高野山、伊勢神宮、出雲大社、眞名井神社、天河神社、下鴨神社、上賀茂神社、鞍馬山、貴船神社、大三輪神社、竹生島、皆神山、磐船神社etc。
僕には霊感のようなものはない。
でもどの聖地も気持ちが清々しくなる感じがして、自分の身が引き締まる思いというか、凛とするような感覚があった。
そういう“気”のようなものを感じる場所は、神社の拝殿や本殿ではなく、奥宮や奥の院である事が多い。
そこには大抵磐座が配置されていたり、山自体を御神体として祀っていた。
現地の案内板を読むと、磐座や御神体の山は古代の祭祀場とされていた場所で、本来は特別な資格がある人間か、厳格な儀式的手順を踏まないと立ち入り出来ない神聖な領域だったりする。
磐座や御神体の山はおそらく宇宙エネルギー(宇宙意識)と繋がっていて、もし可視化する事が可能なら、螺旋状のうねり(龍神)を形成しながら天と地を交信している。
人の意識も元々は宇宙意識の一部。
天と地を結ぶエネルギーが流れる神聖な場所はかつて神であった状態(人と宇宙の統合意識)に戻してくれる場所だと僕は考えている。
だから俗世間に汚染された情報(雑念)だらけの身で不用意に近づけば、神の意識(人と宇宙の統合意識)から遠ざかってしまった罪悪感や後悔の念が、自分への戒めとして祟りや呪いの現象として具現化する。
特別な資格や厳格な儀式的手順を必要とするのは、自分の意識と神の意識に誤差がないように調整するためで、誤差が大きいと宇宙意識からパワー(恩恵)を得られない。
人はこの現世において、神意識(本来あるべき自分自身)を保つ事が出来なくなると生きるのが辛くなったり困難になる。
高学歴、高収入、地位、名誉など、社会が植え付ける相対的な価値観や幸福を受け入れて、本来あるべき自分を捻じ曲げた理想像などを持つと、人の意識は神から離れて、悪魔に近い意識に変貌する。
聖地である神の領域ではそのような意識を“ケガレ”として忌み嫌う。
だから神域に入る時はお清めや禊の手段でもって“ケガレ”を追い払う。
そして神社の拝殿や本殿は、人がケガレの意識状態で御神体に近づく事のないように建造された偽の舞台として用意されている。
商売繁盛や縁結びなどの即物的な願いを叶える場所としての信仰を持たせることで、訪れた人に内在する神性がいかほどのものかを試しているのだ。
本当の神域は鎮守の森(原始から手付かずのまま残る自然)と共に、人があまり来ないひっそりとした場所に築かれ、神官たちによって代々守られている。
神社が果たすべき本来の役割や機能を履き違えた神官は、自らが偽の舞台に仕掛けた即物的な願いに捉われ、神社を悪魔の社に変貌させる。
富岡八幡の継承者争いのような惨事がその例だ。
だから僕は神社を参拝しても何も願わない。
お守りや破魔矢などの護符の類も一切買わない。
お賽銭に関しても、神社への経済的支援という意味で、運営や管理が困難に見える神社にしかあげない。
やる事はただ拝殿の前に立ち、短い祝詞を心の中で三度唱えるだけだ。
自分に内在する神意識へのチューニングを図り、その後御神体を祀る領域へ赴く。
神域へ入る許可が下りた実感があれば、何らかの合図(眷属である動物との遭遇、天候の変化)があり、良い気を受け取れる。
これが僕が聖地巡りをして感覚的に学んだ聖地参拝の方法だ。
日々の暮らしの中で自分自身に迷いが生じたり、俗世間に塗れたケガレ意識によって心がブレそうな時などは、時間を見つけて神社や聖地へ行く。
そして自分に内在する神意識を取り戻し、直観、アイデア、ビジョンとして受け取る。
それは必ず自分の人生をより良い方向に導いてくれると、僕は確信している。