二十代の頃、自殺願望が強かった。
バイトの面接に落ちたりとか、他の人が当たり前のようにこなしている事を僕だけが出来なかったりした時とか、よく死にたくなった。
二十代の半ばくらいに、自分の不甲斐なさにつくづく嫌気がさした僕は、何もかも捨てて失踪した。
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貯金をおろして、当時住んでいた仙台を発ち、東京、大阪、神戸、姫路、岡山を経て、最終的に鳥取にたどり着いた。
鳥取の砂丘に着いた時は服も身体もひどい汚れ方で、明らかに不審者みたいな感じになっていた。
手持ちの金がほとんどなくなり、もうどこにも行く当てがなかったので、コンビニで菓子パンを買って食べたのを最後に「いよいよここで野垂れ死にだな……」と、覚悟を決めた。
日中の鳥取砂丘は観光客が多くて人目につくので、野垂れ死にする前に通報されたら面倒だな、と思い、近くの道路沿いにある岩屋に身を隠した。
空腹を感じつつ、寝たり起きたりを繰り返していると、だんだん時間の感覚がなくなって、空腹感も増してきた。
外から差す明るさで日中と夜の区別くらいはつくけど、今が何時で今日で何日目なのかは分からなくなっていた。
空腹感が次第に耐え難いものになってきて、喉の渇きもひどく、体を動かすのがかなり辛くなっていた。
これが飢餓ってヤツなのかな?
そう感じた時から、頭の中が食べ物の事しか考えないようになっていて、好きな食べ物、嫌いな食べ物、よく食べていた物、まだ食べた事がない物などを、とにかく次々と連想していた。
「アレが食いたい! コレが食いたい! とにかくなんでもいいから食いたい!」
気づくと食べ物に対する執着が死にたい気持ちを完全に払拭して、食欲に精神が支配されているような状態になっていた。
僕はその時、自分が自由意志だと思っているものとは違う、どう足掻いても逆らえない本能をはっきり理解した気がした。
人はおそらく飢餓状態になると、意志では到底コントロールする事が出来ない本能が顕在化するんだろう。
たとえどんなに死を望んでいても、肉体のどこかに宿る本能が脳に“生きろ”と指令を出して、細胞たちに死を回避するためのアクションを起こさせる。
「何か食べられるんだったら何でもする!」
「食べ物さえあったらもう他に何もいらない!」
肉体が徐々に衰弱して意識が朦朧としていく中で、見苦しいくらいに生に対する執着が湧いていた。
気づくと最後の力を振り絞るように岩屋を出て、足を引きずりながら公衆電話を探して歩いていた。
公衆電話から実家に電話したら、声が出なかった。
電話に出た父親に「金がないから助けてくれ」と言ったけど、ずっと飲まず食わずだった僕の声は掠れ過ぎて全然声にならず、仕方がないので交番に助けを求めた。
交番で水をもらって落ち着いてから、また実家に電話して、父親と警察の人に実家まで帰る段取りをつけてもらった。
警察の人には散々怒られて、父親には散々心配されたけど、それでもその時の僕には生きて帰れる喜びと、実家に帰ってから飯を食う事しか頭になかった。
死を逃れる時の本能はそれくらい人間的に浅ましくて醜いものだけど、おかげで僕はそれ以来一度も死にたいと思わなくなった。
死にたいと思わなくなったというより、どうせ死ねないんだから四の五の言わずに生きている感じ。
だから他の人の死にたい気持ちを別に悪いとは思わない。
でもその死にたい気持ちはきっと嘘だと思う。
これからも自殺する人はいっぱいいるだろうけど、本当に死にたいと思っている人はほとんどいないだろう。
嘘だと思うなら僕がそうだったように餓死するまで黙って寝ててみればいい。
そしたら絶対に本能が目覚めて命を生かす方向に仕向けて来るはず。
もしそのまま餓死で自殺する事が出来たら、その自殺願望は本物だ。