人生のちっぽけな終わりを見たせいか、「死」についてなんとなく想う事を書く。
会社まで歩いて出勤する道の途中に、パトカーが何台か止まっていて、警察の人が交通整理をしていた。
どうやらバイクの事故があったらしく、現場検証をしている警察官の足元にヘルメットが転がってて、電柱とガードレールにバイクがぶつかったような形跡があった。
僕はその時、ただそれを見て通り過ぎた。
仕事帰りにまたそこを通ったら、ヘルメットが転がっていた場所に花束が置いてあった。
「ああ、死んだんだぁ」
なんとなくそう思ってから、数日前に目黒で虐待された子供が死んだニュースも何故か思い出して、
「みんななんで今死ぬんだろう? あともうちょっとだったのにな……」と、ふと思ったのだ。
南海トラフ、首都直下型地震……。
これから何万人とか何十万単位の人が死ぬかもしれない日本の命運がかかった大峠を迎えるであろう時にだ。
今、事故や病気、虐待などの個人的理由であっけなく死ぬ人がいる。
それを思うと「人間って何てちっぽけなんだろう」と、不思議と可笑しくなって来た。
どうたとえたらいいのか分からないけど、メインの舞台を見ずに前座だけ見て帰る人に対する「え?」みたいな、白けた気持ち。
そんな気持ちになった。
自分の人生で最大のイベントになるかもしれない大峠を乗り越えるために、僕は放浪して野宿したり、人は食べなくても生きられる事を実証したくて、不食の実践などをしたりして来た。
そんな時に、この世界のどこかで今日も誰かがあたりまえのように飢えて死んだり、ちょっとした不注意で事故死したり、病気になって死んだり、自殺したりする。
僕はどの国の社会も、みんなで生きていくための生存戦略として形成されたものだと思っていた。
その社会が、いつからこうも簡単に個人の生存を脅かすようになったのだろう?
これからの時代に生き残れる人とか、こんな人は生き残れないとか、最近そんな話や記事をやたらと見聞きするけど、社会を形成した以上は、みんな生き残れなければおかしいはず。
僕たちはとうの昔にサルから人間になったのに、いまだ弱肉強食のルールで世の中が回っている。
それが可笑しくて寝れなくなった。
日本は他の先進国より遅れている、平和ボケしている。
それがなんだよ。
みんなで生きるために社会が形成されて、平和になったんでしょ?
だったら遅れてもいいはずじゃないか。
平和ボケしてもいいはずじゃないか。
国際社会もそれを望んでいるんじゃないの?
そう思っていたけど、どうもそうじゃないらしい。
僕の考えが甘かった。
社会はみんなが生きるためにあるのではない。
バイク事故の一件で“メメント・モリ。汝、死を想え”という言葉がずっと頭の中にある。
だから僕は大真面目に、来たる大峠を乗り切ろうと、改めて思った。
まだ僕のどこかにつまらないサルが潜んでいるなら、それを追い出して、更に進化した人類になる。
だから今後はヒューマニズムレベルの些細な事にはあまり同情も共感もしなくなるかもしれない。
全てちっぽけなサルの出来事。
そう割り切って淡々と自己変革を目指すつもりだ。