日本人が昔から使っている「ひらがな(平仮名)」に関する面白い発見をした。
平らな仮の名前と書いて「ひらがな」。
この文字がこの世の現象をフラットにする。
たとえば、ひらがなで「きょうそう」。
この言葉を記した時、ひらがなの時点では、まだ何も決定していないフラットな事象として「きょうそう」というものを捉える事が出来る。
「きょうそう」という響きだけがあり、その意味合いは人の感じ方によってどうとでも取れる状態になっている。
中国から来た漢字は、人が“感じ”取った事を文字に置き換えるための文字で、既に意味が決まっている。
ひらがなは意味合いが決まっている漢字をフラットな状態に戻し、違う感じ方を模索するために出来た文字なのではないか?と思う。
「競争」
この漢字は争って競う時に感じた文字。
それをひらがなでフラットな状態である「きょうそう」に戻し、共に創る事と感じたなら「共創」という漢字にもなる。
このように、まだ何も定まっていないフラットな状態の言葉を観念(漢字)が具現化し、今日の日本語世界が成り立っている。
世界は言葉による観念で出来ているから、それぞれの言語がそれぞれの世界観を創りあげる。
日本のひらがなにはその世界観をフラットにする力があるのだ。
この便利なひらがなツールをうまく使えば自分の凝り固まった観念を何度でもフラットな状態に戻す事が出来る。
悪い観念、負の観念を持った言葉が具現化したこの世界を、もう一度良い観念、楽しい観念で創り変える。
たとえば「戦争」
「戦争」⇒「せんそう」に戻す。
人が大勢死ぬ争いの観念をひらがなでフラットな状態に戻し、かわりに「仙草」「千艘」「船窓」という観念が思い浮かぶようにすれば、僕の世界から戦争という観念が消えてなくなる。
適切な言葉がなければ、洗い直して創るという意味で「洗創」でもいい。
閃いて創る「閃創」でもいい。
自分で開発した造語でもいいから、自分にとって悪いイメージや負のイメージがついた言葉を、一度ひらがなでフラットな状態に戻し、再度捉え直してみると、違う感じ方、違う世界の見え方がある事に気付く。
同じ現象でも言葉が変われば、その現象自体も変化する。
ひらがなにはそんな力が秘められていると思う。