休日にカメラをぶら下げて大阪の街を歩いていたら、天王寺の駅ビルで迷子になっている老人を見かけた。
その老人は郵便局に行きたいらしく、近くにいたデパートの店員に道を尋ねていた。
ただ老人は何度店員の説明を聞いても、「それじゃわからん、こっちはもう1時間以上も歩き続けているんやぞ!」と、声を荒げて、目的地にたどり着けない苛立ちをその店員にぶつけていた。
今の時代、スマホのGPS機能を使えば、人に聞かなくても道なんかすぐに分かる。
でもこの老人はスマホなどの機器を持っていないようで、持っていてもGPSなどの機能を使いこなせないだろう。
その場に居合わせた誰の目にも、この老人が店員に対して理不尽な怒りをぶつけているのは明らかだ。
そんな周囲の白い眼が老人に集中した事もあってか、老人の怒りはどんどん加熱していき、怒りの矛先を案内所の店員に変え、「だから郵便局はどこだ!」と怒鳴り散らしては、説明を聞くたびに「それじゃわからん!」と、ごね続けていた。
僕が見る限り、老人に道を聞かれた店員たちはみんなわかりやすく丁寧に郵便局までの道を教えていたと思う。
でもおそらく老人には店員の示す目印の建物や経路が何の事かさっぱり理解出来ないのだろう。
誰かがこの老人に付き添って一緒に連れて行ってあげない限り、僕はこの老人が郵便局にたどり着く事はないと思った。
結局老人は案内所の店員にも散々不満を言い、苛立ったままその場を去って行った。
立ち去る時の老人の顔はどうしても郵便局にたどり着く事が出来ない不安に満ちていて、老人にとって複雑すぎるデザインと構造になった天王寺駅周辺の景観を呪っているようにも見えた。
老人にとって、今の天王寺の街は不要な物や情報ばかりが溢れているんだろう。
これは単にこの老人が方向音痴だからとか、この老人に土地勘がないから迷ったという問題だけではないと思う。
老人はこの土地を開発し続ける人たちの思惑に翻弄され、さらなる発展のために意図的に重なり合った縦横無尽の導線の中で迷子になっている。
小さい頃から大阪の街が変遷する様子をずっと見て来た世代の人にとって、現在の都会の姿はきっと当人の理解を遥かに超えたものになってしまっているのかもしれない。
そこにある自分の暮らしと古き良き時代の思い出が、得体の知れない変遷を見せ続ける現代の都会に侵食されてしまうような気がして怖いんだろう。
迷子の老人に応対した店員には何の落ち度もない。
ただ人の心の行方も知らず、どんどん複雑に発展する都会のステラジーと、そんな時代の変遷に抗いたい老人のノスタルジーがぶつかってしまっただけだ。
この老人同様に、未来の僕もいつか自分の想像を遥かに超えて複雑になった世界で迷子になったりするんだろうか?
今は特に老後の不安はないけど、時代が変わることに対する不安とか、時代に変えられてしまうことに対する不安は多少ある。
だから僕はいつの世でも変わらない普遍的な物や考え方を見つけて大事にしている。
今後どんな時代が来ても変わらないもの。
それが僕の人生の羅針盤になって、僕が舵を切るべき道をしっかりと示してくれるはずだ。
迷子になった老人の行方は知らないけど、僕は迷子になっても自分で目的地にたどり着きたい。