このブログのタイトルにしている「嗤う狐」。
これは僕が小さい頃から付き合っているニヒルでアウトサイダーな意識につけた名前だ。
「嗤う狐」の時の意識は全ての出来事を感情を挟まずに俯瞰する視点を持っている。
それは僕自身が自覚している顕在意識でもあるけど、無意識に現れているものでもある。
僕は自分が「嗤う狐」と呼んでいるこの意識の存在に、これまで何度も助けられ、何度もヒヤッとさせられた。
何か事が起こると、僕の中にいる「嗤う狐」が僕を諭すように話しかけてくる。
それは仕事の悩みだったり、人間関係の悩みだったり、失恋、死別などでその都度沸き起こる感情に捉われて物事の本質を見失っている僕に、実際に起こっている状況と事実だけを淡々と説明してくれる。
ボク「どうしてあんな良い人が死ななければいけないんだ……」
嗤う狐「人が死ぬのに良い人も悪い人も関係ない。人は遅かれ早かれ必ず死ぬよ」
ボク「でもあまりに理不尽だ」
嗤う狐「一度生まれたら待っているのは死だけだ。死の可能性を回避したのが生。君が今生きているのは、たまたま死の可能性を全て回避している偶然の結果にすぎないんだよ」
心の中で僕は嗤う狐とそんな感じの対話をしている。
僕自身はこの嗤う狐の感情に流されない冷静な意識が好きだけど、嗤う狐を通して誰かと話すと、ほとんどの場合相手からの共感が全く得られない。
僕の父親が癌で3年の余命を宣告された時も、嗤う狐は父親に
「癌なんか別に珍しい病気じゃない。現代人の生活習慣を考えればなって当たり前の病気だよ」と平然と言った。
嗤う狐である時の僕は死を宣告された人が味わうショックや恐怖をまるで考慮しない。
癌になる原因が分かっているのに、それを避けられなかった父親を愚かだとさえ思った。
嗤う狐である時の僕は、この世の不幸や悲劇の大半は因果応報によるものだと思っていて、概ね説明可能だと思っている。
不可抗力や理不尽な結果によって起こる不幸や悲劇はほとんどない。
「そりゃそうなるだろうね」
それで片がついてしまう。
僕自身に降りかかる不幸や悲劇的な出来事にさえ同情の余地がないのだから、嗤う狐が他人の不幸や悲劇に同情するはずがない。
そのおかげで僕に起こるほとんどの出来事は、喉元過ぎれば熱さ忘れるで、どうでもいいと思える。
このニヒルでアウトサイダーな意識の存在については、これまで誰にも指摘された事がなかったけど、高校の時、修学旅行で訪れた京都のゲームセンターの性格診断マシンだけは、この意識の存在をズバリ言い当てた。
その性格診断マシンは写真と生年月日、それに幾つかの質問を加えて診断するものだったけど、内容が的確かつ簡潔に表現されていたので、診断結果は今も記念にとってある。
【性格診断マシンによる診断結果内容】
キミは地に足の着いたところが全くなくて、あわよくば四六時中でも夢想の世界に浸りきっていたいという願望を持っているようだね。
出来ればこんな世界とは一刻も早くオサラバしたいとすら思っているかもね。
キミの性格は、いうなればハードボイルドな一匹狼だなぁ。
自分以外の他人は、全て眼中にない。
利用できる相手なら利用するし、邪魔ならつぶす。
キミにとっては、人間というのはまさしくモノでしかない。
だから他人の感情だとか何だとか、そういったものは一切無関係、無関心、無頓着。
そもそもキミ自身の感情だって、何か重要な部分が欠落しているような傾向すらある。
そんなキミが求めるのは、ただ危険とスリル。
ただ脱出するという目的のためだけに、極限状況を自ら求め続ける人。
危険と困難を克服した瞬間の達成感だけが生き甲斐、って感じだね。
この診断結果を見ると、僕に反社会的な人間のイメージを持ってしまうかと思うけど、これまで法を犯すような事をしたことはない。
そういう組織や団体に所属したこともない。
ただ社会の枠に捉われない独自の思想・信念の下に行動するという意味では、十分アウトサイダー的な人間だと思う。
小さい頃から周囲のみんなが常識や慣習に縛られているような日常の中で、僕だけはみんなが当たり前に了承している事に疑問を持ち、常に世の中を穿って見ているようなところがあった。
みんなにとって不幸な出来事や悲劇的な出来事が、僕にとっては愉快な出来事だったり喜劇だったりするような時も多々あった。
トラブルになるからなるべく表面には出さないようにしているけど、正直僕には人間の営みのあらゆる事柄が滑稽に思える。
僕にとって無価値なものや退屈なものが世の中には溢れ過ぎていると思った。
そのせいか、20代の時は退屈で、希死念慮がひどかった。
僕たちは本当に“人間”と呼ぶにふさわしい存在なんだろうか?
そんな疑問を抱えながらコリン・ウィルソンの『アウトサイダー』を読んだ時、その答えになりそうな興味深い記述をいくつか見つけた。
【コリン・ウィルソン『アウトサイダー』より抜粋】
完全な孤独、他に人間とのつながりを一切断った境地というものを、芸術家は大なり小なり知っている。
アウトサイダーは、たまたま自分が幸運に恵まれているから世界を肯定するのではなく、あくまでも自分の「意思」による肯定をしたいと願う。
そのために深く己を知り、自分の弱さと分裂した心を克服する規律を設け、調和のとれた、分裂のない人間をめざして努力する。
人間の不幸は、内面的な「性質」の腐敗堕落によって生じるよりも十倍も多く外面的な意見や習慣の束縛から生じる。
わたしたちを縛りつけ、盲目にさせるのはわたしたちの両親の血よりも、むしろ両親の生活なのである。
アルコールが人類を支配しているわけは、しらふのあいだ、冷厳な現実とドライな批判精神とによって地べたに押し潰された、人間の最も望ましい生の状態がアルコールによって刺激されるからであるに違いない。
病におかされていることを自覚しない文明にあって、自分が病人であることを承知しているただ一人の人間が「アウトサイダー」なのだ。
アウトサイダーにとっては、世界は合理的でも、秩序立ってもいない。
全ての男女は、自分に対しても、他人に対しても偽装をやめない。
彼らの尊厳も、哲学も、宗教も、すべてが野蛮で、無統制で、不合理なものに艶出しを塗って、なんとか文明的、合理的なものに見せかけようとする試みにすぎない。
人間がその環境の奴隷であることは、樹上の小屋に住まっていた太古も今も変わらない。宇宙における人間の位置だとか、歴史の意味だとかについて、どんなに高尚で素晴らしい思想を聞かせたところで、もし夕食が欲しくなったり、バスの車中で子供がぎゃあぎゃあ泣きわめいて気が苛立ったとしたら、たちまちそんな思想は吹き飛んでしまう。
人間は不変で一貫した存在ではなく、前日と翌日とでは同じ人物でないことに思い至るのだ。
人間は容易に物忘れをし、刹那かぎりの生活を営み、滅多に意思の力をふるわない。
たまに意思を働かせても、すぐにその努力を諦めるか、当初の目標を忘れて、何か他に注意を転じるかしてしまう。
アウトサイダーは、かような情勢のもとにあっても、一般大衆の熱狂に決して感染しない人間である。
アウトサイダーは自分が見たことこそ真理だと感じていて、悲劇的な分裂と無策に悩みながら、詩人もしくは聖者として自己を統一し、自己を実現する。
アウトサイダーは人間のくだらなさ、日常の瑣末事と人間の愚かさによって滅ぼされる。
したがってアウトサイダーは常に不幸であるが、インサイダーたる何億もの大衆に幸福を保証する代理人こそ、「アウトサイダー」にほかならない。
重要なことは、ありきたりの昼間の世界を去って、地獄と天国との中間にある無人地帯に踏み入ることであり、そのとき人間は誰しも「アウトサイダー」になる。
コリンウィルソンの『アウトサイダー』は僕にとって自分自身を知る必読の一冊だった。
そして僕は厄介だと思っていたニヒルでアウトサイダーな「嗤う狐」を肯定する事が出来た。
「嗤う狐」は今後も共に生きていく心強い大事なパートナーだ。
「嗤う狐」がいる限り、何が起こっても大丈夫な気がする。