地下鉄の駅でたまたま立ち寄った現代アートの展示会を眺めてみた。
ほどよいスペースで何かを主張する立体と映像作品。
相変わらずわけがわからず、見た目には退屈だった。
でも僕はこれらが何を伝えようとしているのか考えてはみた。
作品のタイトルと印象で幾つか手がかりを掴んだところで、会場でもらったパンフレットを読む。
そこに書いてある作家さんの思想に「ああ、なるほど、なるほど」と一通り納得し、でもやっぱり作品だけ観てもその思想が伝わらない現代アートに無力を感じた。
僕の他に観に来ていた年配男性のリアクションも見て、さらに無力を感じた。
作家さんの思想は真剣そのもの。
作品だって時間とお金をかけて真剣に創ったものだ。
それはすごく伝わる。
でも何故か会場には有無を言わせない寂寥感が満ちていて、率直な感想は「なるほど、なるほど、で?それがどうしたっていうんだよ?」
そんな感じだった。
それは何も今回観た展示会だけじゃない。
あのピカソが描いた『ゲルニカ』に対しても、僕は同じように思う。
「こんなもんで、戦争の悲惨さなんか伝わるものか!」
僕はゲルニカを前にしてもそこにある無力を観るばかりだ。
僕たちみたいなバカは実際に軍服を着て、銃に弾を込めて、目の前に来た敵を撃たないと痛みなんてわからない。
反対に撃たれてみないとわからない。
家族を殺されて、愛する人や子供たちが大勢泣き叫んでからようやくわかる猿だろう。
その猿が『ゲルニカ』のように抽象化された戦争の悲惨さなんて理解出来るわけがない。
戦争を起こすのは私利私欲に塗れた為政者や資本家たちと、それに流される僕たちの弱さだ。
その為政者や資本家しか買えないような値段で取引されるアートに何が出来る?
美術館を破壊し、『ゲルニカ』の絵に躊躇なく銃弾を撃ち込んでしまうくらいに、僕たち人間の人間性が失われた時に初めて、『ゲルニカ』はその悲惨さを訴えるものになるだろう。
現代アートを観ると、そんな無力な自分を再確認出来るから面白い。
ごちゃごちゃ理屈捏ねて理解したところで、実感なんて一つもない。
僕たちみたいなバカには、安倍総理が見せる曖昧な国会答弁だったり、山本太郎が見せる必死の路上演説の方が胸を打つ。
盛った事を自白したうえでアップされるアイドルの自撮りとか、ファッション感覚で生々しいリスカの痕を見せて来るメンヘラな人たちの方がゲルニカよりよっぽど悲惨さを訴えて来る。
そしてそういう日常に無頓着になりつつある自分がたまに怖かったりもする。
だから僕は今またアートに興味関心を示したんだと思う。
「己の無感動、無力を再確認せよ!」
「アートに触れて感受性を応答させろ!」
そんな感じで僕は毎日なにかしらアートな日常を送ろうとしている。