僕は個人的な興味でこれまで何度かいろんな宗教団体の施設を訪れ、その集会に参加した事がある。
だいたいどの宗教団体の人たちも親切で、ふらっと立ち寄っただけの参拝でも快く歓迎してくれる。
信者さんの中にはもともとスピリチュアルな事に関心がある人が多く、自分が抱えている悩みや問題を解決して欲しくて入信に至るケースがほとんどだった。
僕は新興宗教が誕生する理由や教祖になるような人の生い立ち、人間性、人生観などに興味があり、勧誘を受けても入信する事はない。
ただ一度従兄に誘われて、手かざしで有名な某宗教団体にしばらく出入りしていた事がある。
その宗教団体も例にもれず好意的で献身的な信者さんたちばかりだった。
ただ時々、彼らが口にする「人類愛」に有無を言わせない強制力のようなものを感じたりしていた。
その強い信仰心に関しても、救いを求め過ぎる依存した態度の表れでしかないような気がする時もあった。
深入りし過ぎると、極端な倫理観や生活面での改善などをいろいろ押し付けてきそうな面倒臭い人たち。
そんな印象を受けたので、僕は彼らと親しくなるにつれ、一方では敬遠してしまうところがあった。
どの宗教の信者さんたちも本当は神や奇跡など信じていない。
悩みや問題から解放されようと、教祖や教団に依存して、ご利益やご加護を期待しているだけ。
そんな弱者の心理を理解し、確信犯的に利用しようとする宗教がカルト化していくんだろう。
この小説は冴えない男が衆生を救う奇跡をでっち上げて教祖となり、新しい宗教を興す話だ。
地蔵法眼教。
架空の教団ではあるけど、実際に新興宗教を作るためのマニュアルとしても読めるくらい、宗教法人の内部事情が詳細に語られていた。
この小説が面白いのは、はじめ確信犯的に教祖を演じていた男が、自分に縋る信者たちを見て、次第に本物の“教祖”となるべく、自分自身を騙していくところだ。
豚もおだてりゃ木に登るじゃないけど、教祖になって教団を成功させ、人を騙す罪悪感すらもバネにしてその気になった男が、本物の奇跡と救いを起こそうとして殉教する。
そんな皮肉なラストに感動すら覚え、キリストやブッタの実像もそんな感じだったのかもしれないな、と思ってみたりもする。
世界情勢が不安で社会が混迷すると、この小説の男みたいに霊能者やスターシードなどを名乗る人たちがいっぱい出て来る。
僕みたいにスピリチュアルなものが好きなだけのタイプもいれば、金儲けの確信犯的理由で自称したり、オカルト雑誌やスピリチュアル系の書籍を読んで「自分もそうだ!」と完全に思い込んでしまうタイプの人もいる。
中には驚くべき能力を発揮して、献身的に他人や社会のために尽くそうとしている本物?タイプの人も少なからずいたりはする。
いずれにしろ、僕はそれで何かしら人や社会のためになるのならその信仰心や能力の真偽までは問わない。
宗教の詐欺問題に関しても、自分の悩みや問題を放棄して、教団に依存している信者の方にも原因の一端はあるわけだから、教祖と信者双方で依存し合わないと成り立たないような関係性である限り仕方がないだろう。
他人や社会に依存したところで、結局自分を認めて救えるのは自分だけ。
自分自身を認めず救えない人間が、他人や社会を認めて救うなどあり得ないと思う。
いかに素晴らしい教義でも、“自分”というものを自覚していない人間はそれを活かす事が出来ずに苦しみ続けるだろう。
とかく世間はあざとさに弱い。
救いや安らぎは自助努力している人間に訪れるご褒美みたいなものだ。
神仏への信仰はあくまで、その自助努力を促すための補助的なものにすぎない。
たとえ思い込みでも教祖にそれを伝える力やカリスマ性があれば、宗教は人間の人生にとってすごく有意義なものになる。
そしてある日この小説の男のように、もしかしたら本当に天啓を耳にするような事もあるかもしれない。