あらすじ
コブ(レオナルド・ディカプリオ)は人が夢を見ている最中に、その潜在意識の奥深くにもぐり込んで相手のアイデアを盗むことのできる優秀な人材だった。彼は、企業スパイの世界でトップの腕前を誇っていたが、やがて国際指名手配犯となってしまう。そんなある日、コブの元に“インセプション”と呼ばれるほぼ不可能に近い仕事が舞い込む。
監督:クリストファー・ノーラン
キャスト:レオナルド・ディカプリオ,渡辺謙
僕はたまに明晰夢を見る。
明晰夢とは“夢の中で自分が夢を見ている事を自覚している夢”の事。
明晰夢を見る事が出来れば、実際に夢の中でこの映画のエージェントたちが行っているような事を体験する事が出来る。
夢の中の世界観を設計したり、夢に階層があったりするのも明晰夢あるあるだ。
映画では物語の整合性を取るために夢に関する化学的な説明をいろいろしていたけど、明晰夢を見た事がある人なら説明不要でこの映画の内容を理解する事が出来ると思う。
明晰夢は基本的に、一度夢だと自覚すると、その後の夢の世界を自分で設計出来るようになる。
映画のように予め設計しておく事は出来ないけど、「これは夢だ!」と自覚する以前の夢の世界観をベースにして、自分のイメージしたものを夢の世界に拡張する事が出来る。
たとえば夢の中で「あそこの角を曲がったら、自分のタイプな女性が現れる」とイメージしながら角を曲がると、実際にそのイメージした女性がいたり、「この家の外は砂漠地帯だ」とイメージしながら家の外に出ると、そこに砂漠の風景が広がっているといった感じ。
そしてエージェントたちが夢の中で夢を見ている“夢の階層の状態”も明晰夢ではよく起こる。
僕の場合は夢の中でトイレに行った時、トイレで用を足しても全然膀胱がすっきりしない感覚があったりすると、「これは夢だ!」と気付いて目が覚める。
ところが「夢だ!」と思って覚めた現実もまだ夢の中で、それを何度か繰り返す体験をした事もある。
僕の明晰夢では映画のように夢の中で眠りについて違う夢を見るという体験は出来なくて、最下層の夢から徐々に覚めていくという体験しか出来ない。
おそらくだけど、もしこの映画のように夢の中で眠りについて違う夢を見る事が出来たり、同じ夢を他人と共有出来るようになると、ディカプリオやその恋人が陥ったような、夢と現実の区別がつかなくなる混乱が起こると思う。
現実世界は他人と共有する事が出来るから現実だと認識する事が出来る。
逆に夢の世界は他人と共有する事が出来ないから夢だと認識する事が出来る。
この事実が現実と夢の世界の明確な区分けになっているので、他人と夢を共有したり、階層的に夢を見る事が出来るようになると、現実と夢のきっかけが分からなくなるのだ。
映画のタイトルである「インセプション」には“はじまり”とか“発端”という意味があるようで、この映画は僕たち観客が「エージェントたちが現実から夢の世界に入る発端はどこか?」を探っていくような物語の構造になっている。
僕の経験上、実際に明晰夢を見ても現実と夢の世界の区別がつかなくなるような事はない。
しかし物語の中では現実と夢の区別がつかなくなったディカプリオの恋人が現実世界で飛び降り自殺をするシーンがあるけど、あれは僕も明晰夢へ移行するきっかけとして夢の中でよくやる。
夢の中で何かをきっかけに「これは夢かもしれない」という疑いが生じた時、思い切って高い所から飛び降りる。
そして夢だった場合、ゆったりとした浮遊感があって、現実のようにそのまま落下するのではなく静かに着地する。
そんな自分の状態から「これはやっぱり夢の中だ!」と確信すると、そこから明晰夢に入る事が出来るようになる。
つまり飛び降り行為が夢を自覚するためのインセプション(発端)になるわけだけど、映画のように夢を他人と共有したり、夢のまた夢を意識的に見たり出来るようになると、夢を見るためのインセプション行為が重複して、現実世界にも「これはもしかしたら夢かもしれない」という疑いが生じて来るのだ。
そうすると映画のように夢と現実の区別がつかなくなってしまう。
仮にこの現実世界も誰かが設計した夢の世界で、眠りについた人たちの集合意識で共有されているものだとしたら、そこから覚めるためのインセプション行為になるものは何か?
それは“死”しかない。
この現実世界がもし人類共通の夢ならば、人は死後、その夢から覚める事になる。
そこがどんな世界で、どんな現実かは皆目見当がつかない死後のお楽しみ。
ひょっとしたら人類は、夢のまた夢を永遠と繰り返しているだけなのかもしれない。
『インセプション』はそんな可能性を示唆している映画だと思う。