プロレスラーの木村花さんが、ネットで匿名の人たちから誹謗中傷を受けて自殺した。
僕はただそういうニュースを目にしただけで詳しい事情はわからない。
でもこの事件をきっかけに怒りを感じた人たちから、匿名での誹謗中傷を厳罰化して欲しいという声が上がった。
そしてすぐに法規制の動きがあった。
この迅速な対応には事前に準備していたような違和感を覚えるけど、人が死んだのだから仕方がない。
悲劇を利用してまたやられてしまった。
過去に誹謗中傷を受けて傷付いた人たちから、どこか喜々とした様子で反撃の狼煙が上がろうとしている事態なんかも目について、また世の中に白けた。
誹謗中傷と批判の線引きはどうするの?
いや、そんな事が問題だろうか?
法で守ってもらえる事が解決だろうか?
誰かが自分の人権を無視して侵害した時、法が守ってくれる。
そこに本当の安心感はあるのか?
どんどん疑問が湧いてくる。
法が守ってくれなくても、守ってくれる人がいる。
そういう存在がいなかったら、僕は法に守られても安心感など得られないと思う。
「ただ愛されたかった人生でした」
木村花さんの遺書にあったこの言葉を見た時、僕は彼女の苦悩は誹謗中傷を受ける前から始まっていたように感じた。
「生んでくれてありがとう」
感謝の言葉も残しているから、彼女の両親は彼女を愛したとは思うけど、彼女自身がそれをきちんと実感していたかどうか、本当のところは何も分からない。
想像するしかない。
実感していれば彼女は誹謗中傷に勝てたのではないかとも思う。
弱音を吐いても戻れる場所。
愛してくれる人がいる場所。
それが彼女には必要だった気がする。
側で守ってくれる人の存在があれば、見ず知らずの誹謗中傷など気にせず、自己肯定出来たはず。
問題の根本を解決する事なしに、この国はもう法に頼ってしまうのか?
法でしか人権は守れないのか?
僕は法でしか人権を守れないのであれば、僕たちの人間性はまだまだ未熟で伸びしろがあると思う。
道徳に限界はない。
本質が何か伝わるまで説き続ければいいのだと思う。
それよりも子供を愛せない、親を愛せない、他人を思いやれない、そういう人間の混乱した状態をどうやって救っていくか?
そこに焦点があたるような世論になって欲しかった。
法による言葉狩りで解決しようとする世論は、人間の自由意志と成長を奪う由々しき事態なのではないか?と危惧した。
この法的効果によって、人は他人の腹の底を気にしつつ、意志もなく、物も言わず、果ては聾か唖だ。
この言葉も誹謗中傷として受け取られるのであれば、僕はその罪を甘んじて受け入れて裁かれようと思う。
言葉狩りがまかり通った社会で、僕が自分の主張をするためには、傷つける事も傷つく事も罪として感じなければいけない。
僕はこれ以上監視や管理が徹底した社会の到来を望んでいない。
権力者たちが軽くフックを投げるだけで、国民はお互いを分断し、裁き、住み分ける事を望むようになる。
望んだ以上はもう自己責任だ。
新しい社会がディストピアでももう文句は言えない。
でもそれで最大多数の人たちが幸せなら僕はそれでいいとも思う。
家族や友人みんながそういう社会を望むなら、無理に抗ったり突っ張ったりするのはやめようと思う。
ただそれまでは個人の自由意志を尊重する。
僕の人権を守ってくれるのは法ではなく、これまで築いた来た他者との関係性だから