吉祥寺に住んでいた時、僕は井の頭公園が好き過ぎて、休みの日はいつも公園にいた。
池があるエリアを少し上ると、木陰の中にベンチがたくさんある広場があって、僕はそこでよく本を読んでいた。
二人掛けのベンチばかりだったから、独身が一人で座ると、カップルたちの憩い場を占有しているようで少し気が引けたけど、たまに見知らぬ人たちが、老若男女問わず僕の横に平気で座る事がある。
人間の心理にはパーソナルスペースと呼ばれる、他人に近付かれると不快に感じる空間や個体距離、対人距離というものがあり、このカップルベンチでの二人掛けはそのパーソナルスペースを完全に犯している。
だから見知らぬ他人同士が相席すると、とても気まずい思いをするはずなのだが、そのパーソナルスペースを何の気無しに埋めてしまう人たちが極たまにいるのだ。
先に座っていた僕だけが緊張して、後に来た相手がくつろいでいる妙な関係性のベンチ。
それがやたらと人懐こい高齢者であるとか、そのベンチが自分の定位置で、どうしても譲れない場所なんだ、と無言で主張する近所の人とかなら、まだそんなに気まずくはない。
ただその何の気無しに座った相手が若い女の子だったり、僕の好みのタイプの女性だったりすると、僕の脳はパーソナルスペースを侵犯された気まずさに耐えるため、「僕たちは奇跡的な出会いを果たした即席のカップル♡だ」と、都合の良い解釈をしようとする。
その日も朝から昼過ぎくらいまで一人ベンチで本を読んでいた。
するとどこからか、スーツを来たキレイな女性が颯爽と現れ、空いていた僕の横に突然座った。
香水の良い香りがして、すぐに緊張がMAX。
女性はコンビニで買ったと思われる弁当を持参していて、躊躇う事無く僕の横で食べ始めた。
ご飯の上にガッツリ肉を盛り込んだ塩カルビ弁当だった。
今晩合コンか何かのマッチングイベントがあって、どうしてもスタミナをつけなければいけない肉食系女子だろうか?
そのキレイな女性は塩カルビ弁当をわりと大口で頬張り、しっかり噛んで飲み込むたびに、上空を眺めて溜息をついていた。
長期間同棲していた彼氏と別れ、傷心。
そんな気持ちを無理やり切り替えるために今晩合コンに行く。
オフィスで食べたら女子力が低いと思われるから、公園のベンチでこっそり食べるしかない。
そういう隙だらけな女性であると想定してみた。
この寂しさが埋まるなら、隣にいる冴えない文系男子でもいい。
最早妄想であるが、それに近い理由がなければ、彼女とて僕の横で大胆に塩カルビ弁当を頬張るのは気まずいだろうと思ったのだ。
鼻先をくすぐる塩カルビ弁当の臭いがもう彼女の素敵な香水の香りに勝っている。
僕の横にいるのは女子力を捨てた手負いの女性なのだ。
そうじゃないとこのシチュエーションはあり得ない。
気まずいけど、見方を変えればこれは千載一隅のチャンスなのかもしれない。
勇気を出して話しかけてみようかな?
そう思った時、ふいに僕のお腹が「グゥ」と鳴った。
思えば朝から何も食べていなかった。
ひたすら読書をし続けて空腹状態に気付かなかったが、彼女が食べる塩カルビ弁当の臭いに体が無意識に反応し出したのだ。
「グゥ」
立て続けにまた鳴った。
ひもじくて卑しい文系男子。
彼女にそう思われてしまう気まずさに耐えきれず、僕は逃げるようにそそくさとカップルベンチを後にした。
池のほとりの弁財天に逃げ込み、思わず願をかけてみたりもした。
それからしばらくしてその願いが聞き届けられたのか、僕にも運良く彼女が出来て、正式にそのカップルベンチに座る事が出来た。