うら若き乙女でなくても、たった一人で歩く夜道は心細いものだ。
田舎であれば物の怪の類に用心し、都会であれば変質的な人種に用心する必要がある。
その日バイト帰りで同僚と酒を引っかけた僕は、アパートに帰宅すべく、もうすっかり暗くなった夜の井之頭公園を一人でそそくさと歩いていた。
公園にも街灯はあるが、木々に囲まれた夜の公園となると、場所によっては暗くてほとんど何も見えなかったりする。
「……あのぅ」
そんな感じで急に暗い木陰から人が出て来たら、まず瞬発的に身の危険を感じる。
「うわぁ!」
突然暗闇から声かけられた事に驚き、悲鳴を上げながら後ずさると、目の前に髪も髭も伸ばし放題の得体の知れない男が立っていた。
年齢は不詳で、手にバスケットのようなものを持ち、パッと見た感じ物乞いの浮浪者のような雰囲気があるが、着ている服はアジアンテイストのオーガニックな民族衣装だった。
「な、何ですか!?」
薬物中毒の浮浪者か?カルト宗教の信者か?
どちらにしろ要注意人物である事は間違いなく、脳がただならぬ身の危険を察知して、僕は身構えながらその男の動向を注意深く見守った。
「ブラウニーはいかがですか?」
「へ?」
「ブラウニーです」
「ブラウニー?」
男は手にしたバスケットの中からラッピングした何かを取り出して、僕の前にそれを差し出した。
ブラウニー?
暗くてよくわからないけど、男はラッピングしたお菓子のようなものを手にしていて、「お一ついかがですか?」ともう一度言った。
「何ですか?それは?」
「ブラウニーです」
ブラウニーは知っている。
ただこの困惑している状況の中で得体の知れない男が口にする「ブラウニー」が、僕の知っている「ブラウニー」の事を差しているのかどうかよくわからなかった。
「ブラウニーって、お菓子のブラウニーですか?」
「はい」
そんな気がまったくしない。
彼が口にする「ブラウニー」には、浮浪者が闇の社会から委託されて販売している非合法な何かの隠語だったり、カルト宗教の教祖に託された聖なるヤバイ食べ物を僕に連想させる。
そんないかがわしい物を男は何度も「いかがですか?」と勧めて来る。
とにかく男の素性がはっきりするまで、買うのはもちろん、怖すぎて受け取る事も出来ない。
「手作りです」
僕を安心させようとしたのか、男は無精髭の顔面を歪ませて笑いながらそう言った。
手作りは余計にヤバイだろ?
わざと異物を混入させた手作りのブラウニーを人に食べさせて狂喜する性癖がある人の可能性も浮上して来た。
井之頭公園は過去にバラバラ殺人の遺体が発見されたところでもあるから、何があるかわからない。
「ごめんなさい、いらないです」
「ブラウニーはお嫌いですか?」
「そういう事ではないですけど……」
ブラウニーは一時期ハマって食べていた事もあるけど、僕がブラウニーを好きかどうかの問題ではない。
暗闇から出て来た得体の知れない男が手作りのブラウニーを売っている。
この事が大問題なのだ。
昼の明るい公園で、フリフリのスカートを履いた健気な少女が売っていたら買うかもしれない。
「な、なんでこんな時間にブラウニーなんか売ってるんですか?」
警戒心を解かず、恐る恐る率直な疑問を男にぶつけてみた。
「ボクは朝起きれないので、お昼くらいに起きて作り始めると、売る時間がどうしても夜になってしまうんです」
悪びれる事もなく、男の口からかなり怠慢で不器用な言い訳が飛び出して来た。
「なんでブラウニーなんですか?」
「だって美味しいですし……ボクに出来る事はブラウニーを作って売る事だけだから」
暗闇から出て来たブラウニー売りが急に悲しそうな顔でそう言った。
男に対する僕の警戒レベルが「恐怖のブラウニー売り」から「哀れなブラウニー売り」くらいまで下がった。
見てくれは全然違うけど、もしかしたら「マッチ売りの少女」並みの事情がこの男にはあるのかもしれない。
「そうですか。でもこの時間のこの場所では売れないと思いますよ」
「……ですよね。いつかブラウニーのお店を持ちたいとは思ってるんですけど」
小さくてもいいから吉祥寺の小洒落たエリアに店を持ちたい。
そんな夢を男は語った。
「それなら売れるかもしれないですね」
その夢に向けて勇気を振り絞った第一歩が夜の井之頭公園というわけなのであった。
とはいえ、このままここでブラウニーを売っていても、そのうち誰かに通報されるのは時間の問題だと思った。
その事を男に指摘しつつ、新手の詐欺かもしれないので、申し訳ないがその手作りブラウニーは買わずに立ち去る事にした。
「とにかく頑張ってください」
「また見かけたらよろしくお願いします!」
それから数日後、今度は白昼堂々そのブラウニー売りの男を路上で見かけた。
伸び放題の髪と髭面、アジアンテイストのオーガニックな民族衣装姿はそのままで、颯爽と自転車を漕ぎ、自転車のカゴに山盛りのブラウニーが入ったバスケットを乗せていた。
「ブラウニーはいかがですかぁ?」
その声は夜の公園で聞いた時と同じくらい頼りなくて怪しかったけど、朝早起きしてブラウニーを作り、昼に売り始めたその姿に、僕は彼なりの成長を感じて少し感動した。
僕に気付けば一個買ってあげたのに、彼は汗を搔きながらそのまま通り過ぎて行った。