最近「エイズ」をすっかり聞かなくなった。
不純性異性交遊は相変わらず盛んな方だと思うけど、僕が知らない間にエイズは治る病になって、患者が減ったんだろうか?
僕が20代の頃、「エイズ」はまだ不治の病で怖いイメージがあった。
そんな時に出会った女の子の話。
仙台のアーケード街にHMVがあって、僕は週末の夜になると、店の前を陣取って手描きのポストカードを売っていた。
人通りのある場所だったら売れると思ったんだけど、人見知りの羞恥心が邪魔して近寄り難いオーラでも出てるのか、ほとんど見向きもされない。
たまに興味を示して足を止めてくれる人も、遠巻きに作品を眺めるだけで購入する気配はほとんどなかった。
これじゃダメだと思って、愛想よく振る舞うために酒を飲んでほろ酔いになり、目が合った人にペコペコお辞儀をしたら、お情けで何枚か売れた。
酔いが深まってテンションが上がれば調子の良くバンバン売れる時もあったけど、泥酔したサラリーマンやナンパに来たヤンキー系の人たちに作品を踏まれる事なんかもよくあった。
そんなある日、いつものようにHMVの前を陣取ってポストカードを売っていたら、不愛想な僕に全く臆する事なく興味津々で近付いて来た女の子がいた。
無地の白Tシャツに霜降りのジーンズ。
足元は年季の入ったスニーカーで、何が入っているのか?大きな紙袋を手に提げていた。
「こんにちわ!」
化粧っ気が全くない、短髪のボーイッシュな女の子だったので、真正面に来るまで始め性別がどっちか分からなかった。
「初めて見るね?いつもここにいるの?」
「いつもじゃないけど、たまにいるよ」
元気で気さく。夜一人で当てもなく歩いている人は、わりと変わり者が多い。
僕の偏見だけど、その子の見た目とグイグイ来る距離感のつめかたが、何か変だと思った。
「へぇ、面白いね」
そう言ってしゃがみ込み、シートに並べたポストカードをじっくりと眺め出した。
「326とか好きなの?」
よく言われるムッとする言葉を彼女も吐いた。
原色だけで塗ったポップな色調。
ネガティブだけど可愛いキャラ。
僕が描くイラストは当時流行っていた326のイラストに雰囲気が似ていた。
でも僕の絵はピカソのキュビズムと色調を意識したもので、もっと言えば、荒木飛呂彦のJOJO。
そのマンガに登場する、オインゴボインゴ兄弟が描く絵を真似て描いていた。
その事に気付く人はほとんどいなかったけど、「326のパクリ」「326っぽい」はしつこいくらいによく言われた。
またか、と思いながらも、それで売れるなら別にいいやと開き直って、「うん」と答えた。
「他にないの?」
長居するつもりなのか、彼女が完全に地べたに尻をついて座り込んだ。
面倒臭い夜になりそうな予感がしたけど、じっくり鑑賞してくれる人が一人でもいると、つられて近寄って来る人もいるから、ある意味助かったりもする。
「良かったら、これも見てみて」
他の作品のストックを収めたファイルを彼女に渡した。
「へぇ」
じっくり見てはくれるけど、いまいちなリアクション。
「アタシも絵描いてるんだけど、見る?」
彼女は僕の返答を待たず、作品のファイルを閉じて返すと、紙袋からスケッチブックを取り出して「はいっ」と僕に渡した。
100円ショップで売っているような、薄い紙質のスケッチブック。
そこにクレヨンとマジックを使った子供っぽいイラストがびっしり描き込まれていた。
「へぇ、良い感じの絵だね」
お世辞にも上手いとは言えなかったけど、楽しそうに描いてる感じがすごくあったから、とりあえず褒めた。
「アタシ美大とか全然行ってないの。全部独学」
彼女の見た目では、学生なのか、働いている社会人なのか分からない。
素性の分からない、変な女の子が独学で描いた絵。
「独学にしては上手いね」
独学だったら絵が上手い下手の評価は気にしなくてもいいと思った。
でも美大に通っていてこんな絵を描いているんだとしたら、はっきり「下手だ」と言っていたかもしれない。
「あなたは美大生?」
「ううん、デザインの専門学校」
「そうなんだぁ、イラストレーターとか目指してるの?」
「まぁ一応」
なんとなく恥ずかしくて、画家を目指しているとは答えなかった。
イラストのポストカードを売っているんだから、イラストレーターでも別にいいか。
彼女もイラストレーターを目指してるんだろうか?
聞こうと思ったら、「アタシも目指してる」と、彼女が先に言った。
「でもエイズだから、無理だと思う」
「エイズ?」
「うん、エイズ」
唐突のカミングアウト過ぎて、何を言われたのかよく分からなかった。
出会って間もない人間に言う事だろうか?
「それは大変だね」
見た目変だし、元気そうだから彼女の言っている事が嘘か本当かわからず、つい素っ気ない返答になってしまった。
エイズって事は男性との性的経験があるという事だ。
どんな男が彼女とHしたんだろう?
性的魅力がほとんどない女の子でも、男と交わってエイズになる。
あり得なくはないけど、個人的には受け入れがたい事実だと思った。
「飲む?」
彼女がスッと僕に缶ジュースを差し出した。
小粒の入りのオレンジジュース。プルタブが既に空いている彼女の飲みかけ。
嘘だと思ってるんなら飲めるよね?
彼女が僕を見透かして、からかうような笑顔を浮かべていた。
彼女のエイズは本当で、もう余命幾何もない。
その自暴自棄が諦念に変わり、残りの余生を開き直って生きている女の子。
そんな気がして来た。
「いいの?じゃあ一口もらうよ」
そう言って彼女が差し出した缶ジュースを一口飲んだ。
どうせ嘘だと思うけど、これで感染したら、恋愛感情も性交渉もない女の子と心中だ。
缶ジュースを返すと彼女がすごく満足そうな顔をしていた。
やっぱり本当にエイズなのかもしれない。
「死ぬ前に本作るから買ってね」
彼女は描き貯めた絵を画集にして自費出版で売るつもりみたいだった。
エイズで余命がない女の子の画集だったら、そんなに上手くなくても話題性があるから、付加価値がついて売れるかもしれない。
余命までは聞かなかったけど、死ぬまでにやりたい事、出来そうな事がそれくらいしかないんだろう。
僕だったらどうするか?
とりあえずここでポストカードはもう売らないだろうな、と思った。
「またここで見つけたら声かけて」
「うん、ありがとう。お互い頑張ろうね」
帰り際、彼女が僕のポストカードを一枚買ってくれた。
その後も何度かHMVの前でポストカードを売ってみたけど、彼女の姿を見かける事はなかった。
画集はちゃんと出せたんだろうか?
まだ生きているんだろうか?
やっぱりエイズは嘘だったんだろうか?
ていうか、あの子は一体なんだったんだろうか?
たった一回だけの出会いだけど、そんな感じで強く印象に残る人がたまにいる。